「日本の所得格差と所得変動―国際比較・時系列比較の動学分析」
本稿は、直近の公的統計や慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センターが実施した『日
本家計パネル調査』を使って、国際比較・時系列比較を行うことにより、わが国の所得格
差の現状とその変化について展望することを目的とする。とくに各世帯における世帯員の
就業状態・雇用形態の変化、賃金の変化によって世帯所得がどう変化するかを追跡調査し、
所得階層の固定化、恒常的貧困率・一時的貧困率について国際比較を行う。最後に所得格
差やその原因、さらには政府の所得再分配機能に関する国民意識の違いやその変化に接近
し、わが国の所得格差拡大の背景に潜む課題について考察する。
分析の結果、以下の点が明らかになった。(1)わが国の所得格差はアメリカやイギリス、
オーストラリア、カナダのアングロサクソン諸国に比べると大きくないが、他の多くの
OECD 諸国と同様、近年、拡大する傾向が見られる。(2)等価可処分所得の年齢階層別ジ
ニ係数を見ると、20 歳代、30 歳代において格差拡大が観察されるのに対し、60 代後半以
降の所得格差はもともと大きいものの、近年、年金給付の拡充により縮小する傾向にある。
(3)低所得層に焦点を当てた相対的貧困率や高所得層に焦点を当てたトップ 1%の人の所
得占有率、いずれを見ても、ほとんどの OECD 諸国ではこれが上昇する傾向にあり、わが
国もその例外ではない。わが国では 1997 年以降、全体の所得が低下し、貧困線が名目にし
ろ、実質にしろ、低下するようになったが、それにもかかわらず、貧困線以下の相対的貧
困率は上昇している。(4)日米英独仏における労働分配率を見ると、いずれの国でも近年、
これが低下する傾向にあるが、日本においては特にその傾向は強く、景気に関わらず付加
価値に占める総人件費の低下が大きい。(5)世帯主の就業状態・雇用形態別の貧困率を見
ると、世帯主が失業している世帯、無業の世帯の貧困率は高いが、日本においては非正規
労働者である世帯の貧困率も高い。夫婦 2 人がそろって働いても、2 人とも非正規労働の場
合、夫だけが正規労働者として働いている世帯よりも貧困率に陥っている割合は高い。多
くの OECD 諸国では無業世帯における貧困割合が高いが、わが国では失業率も低く、無業
世帯も少ないことも反映して、貧困層に占める無業者世帯は少なく、2 人以上の世帯員が働
いていても、それらが非正規雇用である世帯の割合が高い。(6)世帯主所得が低い世帯で
は、配偶者の就業率は高く、個人単位での所得格差よりも、世帯単位の所得格差は総じて
小さい。(7)所得階層間の移動を見ると、前年、貧困層にあった世帯の貧困脱出率は全体
では 39%であるのに対し、世帯主が前年、非正規労働者であった世帯、無業であった世帯
の脱出率は 27%、24%と低い。前年、貧困層になかった世帯が翌年貧困層に陥る貧困突入
率は全体では3%であるのに対し、非正規労働者であった世帯では 7%、無業世帯では 15%
と高い。3 年間の所得観察期間中、1 度も貧困層に入らなかった比率は、OECD17 カ国平均
値に比べ、わが国では低く、3 年とも貧困層に入っていた恒常的貧困率は若干高い傾向にあ
り、所得階層の固定化が観察される。こうした現象には、主に長期にわたり非正規労働者
にとどまる者が急増していることが影響している。(8)わが国では、ドイツやスウェーデ
ンに比べ、貧困は個人の怠惰により起こっているというよりも、不公正な社会の結果、起
こっていると考えている人はもともと少なかったが、近年、貧困は個人の責任というより
も、社会の不公正により起こっていると考える人が増えた。所得格差の拡大は人々のイン
センティブを高めると考えている人は少なく、むしろ政府の所得再分配機能の強化や貧困
対策を求める人が増加する傾向にある。